色事師談

2009年09月12日

留学時代の話。ある友人が、女遊びの好きな友人のことを「あいつはドン・ジュアンだ」と言った。
ヨーロッパでは女たらしのことを「ドン・ジュアン」と呼ぶらしい。

きっかけはただそれだけ、この「ドン・ジュアン」なる男が何者なのかを確かめたく、「ドンジュアン」伝説のなかでももっとも有名な作品、フランスの有名な劇作家モリエールの手による『ドン・ジュアン』を読んでみた。
さて、ざっと要約してみて、間違いなく女たらしの物語。


もともと近世に書かれた劇作なのでお色気のある描写はもちろんないが、物語の内容にはまったく「古さ」を感じない。
女たらしドン・ジュアンが周囲(父、貴族などなど)には義侠あふれる男に見せかけつつ、次々と女を口説き落としては乗り移っていくという、古今東西どこにでもいる、調子のいい女好きの話である。
この物語の主題をまとめると、当時増えつつあった無神論者・涜神行為への皮肉、「永遠の探究者」という近代的人物像、そして薄れつつあった騎士道への敬意と賛美、この3つに分けられるだろうか。
無神論者、そして「永遠の探究者」とはもちろん、神をも恐れぬ底なしの女好き、ドン・ジュアンのことである。騎士道への敬意は、作中に登場する騎士道精神あふれるドン・カルロスなる男、そしてドン・ジュアンへの懲罰的な顛末によって浮かび上がってくる。


本書の解説を読むと、当時有閑階級を中心に無神論者が増えていたことが分かる。

だが彼らは哲学として無神論や不可知論を奉じているのでなく、「自己の破廉恥な行動を合理化する」ために無神論を利用しているに過ぎなかった。
こうした人間は、当時よりも現代社会にずっと多いようにも感じる。
もちろん、現代の日本の社会には宗教という権威は存在しない。その意味で無神論者であること自体は驚くことでも何でもないし、当時の無神論と現代の無神論を同列視するわけにはいかない。

けれども、社会の秩序を守るために残されてきた伝統や道徳を破壊して、その正当性を浅い「無神論」「唯物論」に頼っている人間も、モリエールが皮肉った無神論者と根本的に変わりないように思える。

作中では、騎士道による決闘、父の勘当など、幾つか「非宗教的」な裁定がドン・ジュアンに対して試みられるものの、結局うまくいかず、最終的には神の起こした奇跡なのか、それとも「驚異」(「メルヴェイユ」)なのか、雷によってドン・ジュアンは屠られる。
社会の秩序を維持する最終決定手段は「神の力」、すなわち宗教しかない、そうにも読めなくもない。
強いて言うならば、このあたりが近世という時代背景故の、作品の限界だろうか。

『ドン・ジュアン』
モリエール(作) 鈴木力衛(訳) 岩波文庫、1952
"Don Juan ou le festin de Pierre"
Molière 1665
  


Posted by migu9 at 18:00Comments(0)Book